
事故後、都立広尾病院に搬送された頃からの生きるか死ぬかの3日間です

| 都立広尾病院に意識不明、心停止、呼吸停止、大量出血で搬送される。 頭蓋骨抜け、脳挫傷、頚髄損傷で、意識不明の重体。頭蓋骨が抜けたため、首の皮膚が切れたというより破けたという感じ。それゆえ、とりあえず縫ったという感じ。 ICU(救急病棟)にて強心剤、口から入れる人工呼吸器、その他色々な管を付ける。 顔はパンパンに腫れてまん丸で、首や鼻に当ててあったガーゼは出血で真っ赤に染まる。 |
ちなみに、あまりにもかわいそうな状態なので写真はありません

| 2月15日の昼頃、堀内家では大学が休みで千葉から帰ってきてた弟と両親の3人で昼飯を食べようとしていました。 1本の電話が入ります。 この1本の電話で堀内家の生活は今までと全く違うものになりました。 病院から俺の事故の通報の電話です。 大急ぎで東京へ向かう新幹線に乗ります。 が、「家族が到着するまでもたないかも」という話だったので先に横浜の祖父母と親戚に広尾病院へ行ってもらいます。 が、結局 家族が着いた16時頃まで生きていました。 母がICUのベット上にいる俺に「宗喜!」と肩にさわりながら声をかけると、ICUの看護婦さんに「やめてください、揺らすと死んでしまいます」と言われたそうです。 その後主治医の先生と両親で話し合いがあったので、その時の母と先生のやり取りを少々。
そんな状況下、弟が「兄ちゃんは友達に会いたがってるはずだ」と言って母に掛け合いますが、 母に「お兄ちゃんはね、もうすぐ死ぬんだよ。どうせ葬式で長野まで来てくれるんだから、友達呼んじゃ駄目」と言われます。 しかし弟は何回も母に掛け合います。その結果「近くに住んでる友達3人だけだったら呼んでいいよ」と許可がおります。 自殺の疑いがかけられている為、全ての持ち物が警察に持っていかれていたので、弟は親戚の叔父と警察署まで携帯を取りに行きます。 そして弟は友達3人に「兄ちゃん、、、、、死んだ」と泣きながら連絡をしました。 まだ生きてたものの、かなり動揺していたようです。 その連絡を受けた友達3人が他の友達に連絡をして、北は岩手・南は静岡、小・中・高・専門学校・少し前まで働いてた居酒屋のバイト先の友達など、沢山来てくれます。 弟からの連絡の通り「死んだ」との連絡を受けてです。 誰に聞いても「沢山」としか答えは返って来ず、正確な人数は分かりません。 来てくれたものの、俺のいる場所はICU。 なにぶん面会時間が少ないです。 特別に面会時間を多く取ってもらえたものの、家族と友達合わせて15分を1日4回。 面会後ICUの出入口に沢山いたら看護師に怒られたので、面会が終わるとみんなどこかへ散り、面会時間になるとみんな集まって来たという話です。 それは17日まで続きます。 16日になっても生きてたので、頭と胴体を固定する為に頭にハローベストのボルトを付ける処置をしました。 この手術をする為に髪を切りました。そして個室のICUに移ります。 「あと少しで死んでしまいます」 「あとは悪くなるだけです」と主治医の先生や看護師に言われ続けていましたが、17日になると看護師から「いままで最悪の状態を保って生きていましたけど、ここからは急激に悪くなるので家族以外の面会はもう出来ません」と言われます。 それを受けた父がみんなを集めて「おかげさまでここまで生きられました、ありがとうございました」と、あいさつをしました。 その後、オーストラリアに旅行に行ってた彼女(元彼女)が帰ってきて、すぐ病院に駆けつけてくれました。 特別に夜9時頃面会をさせてもらうと、俺の目が開いたらしいです。 |
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| 東京に向かう新幹線の中で母は何故か、広尾病院のICUにいる俺に対して気を送るために 山・川・木・見えるもの全て に生きる気を分けてくれるよう念じてくれます。 普段そんな事しない人だし、どこの宗教に入ってるわけでもないです。 今になると何故念じたかは母にも分からないようです。 父は15日の18:30頃、「もう駄目みたいだから、葬式になるからしばらく会社休む」と会社に連絡をします。 母は15日の夜11:00頃、最後の面会の時俺があまりにも苦しそうでかわいそうだったので「もう、楽にしてやってください」と看護師に言ったところ、「お母さん、強心剤は沢山使ってるけど心臓は自分で動いてるんですよ。だからこの治療をやめるわけにはいきません」と言われます。 友達が「沢山」来てくれたが、よーく考えたところ俺がいい人だったんじゃなくて、友達にいい人が沢山いただけでした。これ、マジで。 事故当初の状態は相当悪く、ICUにて母に「宗喜に触ってあげて」と言われても触れない人が多く、俺の状態を見て膝を落とす友達もいました。 祖父母は夜になり病院にいるより ちょっとでも布団で横になった方が良いという両親の判断で 一旦横浜の祖父母の家に帰りますが、一睡も出来ず16日の早朝5:30に広尾病院に来ます。 15日に父は心霊治療の仲介をしてる友達から電話をもらい、「先生に遠隔でパワーを送ってもらおうか?」と聞かれるも、「いや、多分もうじき死ぬからいいよ」と断ります。 が、16日になっても生きていたので改めてパワーを送ってもらうようお願いします。そしてパワーを送ってもらうようになります。 15日に、頭にハローベストのボルトを付ける手術の説明を受けて、頭を坊主にしなければいけないと聞いた母が「先生、100%死ぬんですよね。だったらお葬式の時に、このままお棺に入れてあげたいんで手術お断りします」と一旦手術を断ります。 が、16日の朝になっても生きていたので先生が「このまま同じ体位のままでいると、褥瘡、(じょくそう)ができてしまいます。体位交換をするためにも頭を固定する手術をした方が良いですが、どうしましょう?」と両親に聞くと、両親は首を縦にふることになります。 そして俺の入ったICUの個室は昔、元] JAPANのhideが入ったICUの個室でした。 母はそれを聞いて「hideはまだこの世にやり残したことが沢山あったから、この部屋にはhideのパワーがまだあるはずだから、hideのパワーを貰いなさい」と俺に言います。 後になって俺も、hideと同じ部屋に入ってたと聞き、なんだかうれしくなりました。 病室ですけどね・・・・・ 両親がバイクに乗るのを反対していた父の友人が来た時、母は自分がバイクに乗っていた事と 俺にバイクに乗ることを許可した事 を後悔して泣きました。 母が泣いていると親戚の叔父が、「ねーちゃん考えてみろ、宗喜が人を跳ねて殺したかもしれない、そーだったら親子で辛いぞ、それよりも好きなバイクに乗って自分で死んでいくんだからいーじゃねーか」と慰めて?くれました。 ちなみに、事故後母が泣いたのはこの時だけです。 16日、母の妹が「お姉ちゃん、おばちゃんがおかしなこと言ってるけど相手にしちゃ駄目だよ」と、母に言いに来ました。 そしてしばらくして親戚のTおばちゃんが来た時のやり取りを少々。
この時母はTおばちゃんの言ってることを全く信じていません。 あきれて話を「ありがとう」と言って終わらせた感じです。 いつ見たかは分からないけど、 白い花と緑の葉っぱ がとてもきれいなお花畑を 見ました。 この映像だけは今も鮮明に覚えていますが、 おそらくあちらの世界だと思われます。 |
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